「生物多様性」そのものの意味は、様々な生き物がお互いに関わりあいながら生きていること。教科書的には、種の多様性、生態系の多様性、種内(遺伝子)の多様性の3つの多様性をさします。
種の多様性とは、生物の種類が豊富であること。特定の種ばかりが増えてしまうことは様々な問題につながります。また種の数が多ければいいということではありません。侵略的外来種がどんどん多様になってしまっては問題です。
一般的に北よりも南の方が生き物の種類は多いと言われます。しかし、たとえば北極は生き物が少ないと感じる人が多いと思いますが、北極にも多様な生き物たちの命の連鎖があります。北極から流れる流氷に含まれる多くの微生物が、たくさんの海洋生物の命をつないでいます。
生態系の多様性とは、生態系の種類の多さの重要性のことです。一言で山と言っても里山、低山、高山、渓谷林と多様にあり、さらには照葉樹林、落葉樹林、針葉樹林などそれぞれそこで暮らす生き物はことなります。海であれば、遠浅、深海、サンゴ礁、干潟、磯とすべて暮らしている生き物がことなり多様性を生み出しています。開発などで生態系を変えてしまうことは、そこでしか生きることのできない命を奪うということです。
一方、生き物はとてもしたたかで、人間が生態系を改変して作り出した場所、たとえば田んぼには、日本の場合2000年という長い年月をかけていろいろな生き物が順応しています。また自ら田んぼを選んで暮らし始めた生き物もいます。現在、日本の田んぼは、約6000種の生き物のすみかになっています。
種内(遺伝子)の多様性とは、一つの種の中で遺伝子が多様であることの重要性を意味します。人間であれば、一卵性双生児を除いて遺伝子は一人一人違います。肌の色がちがう、目の色が違う、骨格が違う、髪の色が違う、性格が違うというように一つの種であってもみんな違います。人間以外の生き物も同じです。わたしたちから見れば同じように見えるタヌキやキツネたちも一匹一匹ことなる遺伝子を持っているのです。
もし、みんな同じ遺伝子を持っていたら?同じ病原体にやられ、みんな同じ症状になり、同じように死んでいくことになります。これまで人類は天然痘やスペイン風邪など様々なパンデミックに出会いましたが、遺伝子の多様性によって死んでしまう人もいれば、助かる人もおり、そもそも病気にかからなかった人もいます。遺伝子の多様性がなければ人類は滅んでいたはずです。遺伝子の多様性がない種はとても弱いのです。
そのため生き物にとって地域絶滅は深刻な問題です。同じ種類でも九州のツキノワグマと四国のツキノグマ、本州のツキノワグマは、それぞれ受け継いできた遺伝子がことなります。現在では九州では絶滅、四国でもほぼ絶滅が確定、本州にしかいないツキノワグマは遺伝子の多様性を失っており、種としてはとても弱い存在です。
3つの多様性について説明してきましたが、一番大事なのは、その多様な命の連鎖の中に人間も含まれているということです。
現在、世界中で年間4万種の生き物が絶滅していると言われています。そう聞くとわたしたちは、絶滅危惧種や希少種にだけ目が向いてしまいそうですが、例えばすでに一度日本では絶滅し、現在野生復帰を試みているコウノトリは、コウノトリ一人で生きているわけではありません。生態系の頂点にいるコウノトリは完全肉食ですから彼らが食べるカエルやヘビ、小魚たちがいる浅い湿地や田んぼが必要です。また営巣するための背の高い木も必要です。農薬の使用で小さな生き物たちが死に絶えてしまったことと森林伐採がコウノトリにとっては致命的でした。
つまり、カエルやヘビ、松の大木などコウノトリ以外の命を守らなければ、日本の空からコウノトリが舞う姿が消えてしまうのです。今、兵庫県豊中市の農家さんたちが農薬使用をやめ、生き物がたくさんいる田んぼ作りをすることで、少しずつコウノトリが戻ってきています。
わたしたち人類は、アマゾンの樹林が消えたらならば、呼吸をすることもできなくなります。ミツバチが消えたならば、ほとんどの農作物を得ることができなくなります。地域の自然の多様性が消えてしまえば、全国どこに行っても同じ風景、同じ食べ物になってしまいます。生物多様性がなくなることは文化の多様性も失うことになるのです。
地域ごとで生き物たちがことなり、地域ごとで人々と生き物たちとの付き合い方がことなる。生物多様性の保全は、人間社会の多様性を守ることです。
高尾山・生物多様性ゆるゆるガイドツアーは、高尾山という地域の個性を守るガイドです。